しらすのブログ

しらすのひとりごと

中高生という曖昧さ

こんばんは~!

今日は久々の例会(サークル)で主に体力の点で老いを感じてきました!!しらすです!

 

前々から書きたいと思っていたので、

今回は中高生に関して、その境界線といじめとかもろもろ思うところをダラダラ書かせてほしいと思います。

 

ちなみに、先に言っておくと、

私は社会人におけるいじめと、中高生に関するいじめははっきり区別しています。

 

子どもに関して、いじめの話をするときに、

そこに「加害者」と「被害者」という存在が浮かび上がることが多いですが、

私はそこに加害者は存在しないのではないか、と考えています。(あくまでも子どもの話)

 

そんなことを書くと大炎上しそうですが、言えるなら、そこに関わる子どもたちの全員が被害者にあたるのではないかと考えています。

それは、大人に大きな責任があると考えるからです。

 

私が今、大学生になって思うことは、

大学生になっても、まだまだ中身は子どもである、ということです。言い方を変えれば、成長の幅というものは一生あり続けるんだろうな、と考えています。

大学生になってもそう思うのに、中学生・高校生に関しては、

自分が当時思っていたよりもずっとずっと子どもだったのだろうな、と思います。

 

だからこそ、未成年、という枠組みがあり、法律などでも守られているのではないか、と考えています。

 

私が自分が大人になった、と感じたのは

自分自身が「まだまだ中身は子供であり、生涯成長し続けるもの」であると、

様々な経験から心から納得できた時でした。(明日誕生日を迎えるにあたっていろいろ考えた。)人間はいつまでたっても未完成だし、大人という定義はそもそも存在しない、と。

ちょっと脱線…?

 

まぁ、それまでは、いつの日かは完璧な大人になる、漠然とですが、そう考えていました。

逆に、自分が子どもであることを認められない限り、

いつまでも精神的に子どもであり続けるのではないか、と考えました。

 

中学生・高校生は「大人になろう」とする過程にいるという意味で、どんなに大人びているとしても「子ども」であると私は考えています。

当然、子どもたちなりの「大人」に成長しようとしているわけですから、絶対にそこに年長者の助けが必要です。

 

見た目は大人になりかけていますし、言葉遣いや考え方も、見たところは大人のように見えるかもしれません。

でも、彼らは守られるべき対象であり、どんな時も誰かの助けを得る権利のある存在だと考えています。それが私の中での未成年の定義です。

今は、中高生の話をしていますが、多く人と関わる中で、未成年時代にその権利を使い切ることが出来ずに、成人後も、未だに誰かの助けを必要としている人もたくさんいます。(私もその一人だと考えています。)

 

悪いことをしてしまっても、成長の過程であるという認識を持って、本人の人間性を否定するのではなく、本人の「やってしまった事実」を2人で一緒に確認して、一緒に解決していく。 この体験があるかないかで、その後の成長の仕方というのはかなり変わってくるのではないでしょうか。

例え人を傷つける経験をしてしまっても、それをただの経験で終わらせなくて済むのではないのかな、と思います。

 

そうやって、守ってもらう経験をしなかった人たちが大人になり、

子どもたちを守る(正しい道を本当の意味で寄り添って教える)役割を担うことが出来ずに、次の世代の子どもたちがまたその権利を使い切れず、子供たちを加害者・被害者と分けるような空気が生まれるのではないか、と個人的に考えています。

 

いじめを行う子供達がいなくなることは、あり得ないと思います。それは、成長の過程で生じざるを得ないものでもあると考えるからです。

もちろん、当たり前のことですが、だからと言っていじめは絶対に許されることではありません。いじめられた子どもたちの辛かった思い出は消えることがないからです。

いじめで命を絶つ子どもたちもいます。

そしてその人数分、人を殺してしまった体験をした子どもたちもいます。

 

これは子どもたちだけの責任ではなく、家族・教師も含め、そこに関わる全ての大人の責任なのではないでしょうか。

 

そして最近思うのは、子供達は守られる経験をしない割に、大人として扱われがちだな、と思います。

やりたいこと、自分の自由にしたいことに関しては「子供だからダメ」

何か失敗をしたら「もう(中)高校生なんだから」

これはまさにコドモオトナ製造工場だな、と個人的に思います。

大人は子供が納得するまで、一人の人間として扱った上で話をするべきなのではないかな、と思います。

 

以上、だらだら独り言でした。